ストレスケア病棟の現場から見えているもの
自傷行為に頼る感覚
「腕を切る」「自分の体を叩く」「髪を引き抜く」。
こうした行為を、世の中では「自傷行為」という言葉でひと括りにします。しかし、ストレスケア病棟という現場で多くの方の傍らにいて見えてくる景色は、それほど単純なものではありません。
そこにあるのは、決して「死にたい」という願望だけではありません。
むしろ、耐えがたいほどの心の痛みを、物理的な痛みに置き換えることで、どうにか「いま、この瞬間」を生き延びようとする、切実な防衛反応であることがあります。
この記事では、自傷という行為そのものの是非を問うのではなく、その背景にある身体感覚と、現場で大切にされている距離感について、静かにお話ししたいと思います。
特別な「事件」にしない、という距離感
ストレスケアの現場にいると、誰かが自傷したことを告げてくれる場面に立ち会うことがあります。
そのとき、専門職が最も大切にしているのは、それを「衝撃的な事件」として扱わないことです。慌てふためいたり、過度に同情したり、あるいは「なぜそんなことをしたのか」と問い詰めたりはしません。
ただ、淡々と傷の手当てをし、そこにある事実をそのまま受け止めます。
なぜなら、激しい感情の波に飲み込まれているとき、周囲の人間までが一緒になって波に飲み込まれてしまうと、その場所は「安全な場所」ではなくなってしまうからです。専門家がそこにいる価値は、あなたの抱える嵐のような感情に触れても、決して壊れず、揺らがず、淡々とケアを続けられる「運用能力」にあります。
自傷行為という「唯一の手段」の輪郭
自傷行為に頼る感覚の中には、一種の「落ち着き」が含まれることがあります。
自分を責める思考(反すう)が止まらず、頭の中が真っ白になるほどの不安に襲われたとき、痛みを感じることでようやく「現実」に意識を引き戻せる。あるいは、麻痺してしまった心に「自分が生きている」という感覚を無理やり取り戻す。
それは、その方にとって、その瞬間の痛みを凌ぐための「唯一の手段」に見えているのかもしれません。
専門職は、その行為を無理に奪おうとはしません。ただ、並走する中で、次のような変化が小さく、しかし静かに起きるのを待っています。
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一瞬の「間」が生まれる
強い衝動が来たとき、すぐに手が動くのではなく、「あ、いま自分は切りたくなっているな」と、自分の状態をほんの一歩引いた場所から眺める瞬間です。 -
対処の選択肢が「一つ」ではなくなる
自傷が「いま、これしかない」という絶対的な解決策から、「いくつかある対処法の一つ」へと、その優先順位が少しずつ下がっていく。そのグラデーションの変化を見守ります。
言葉にしても、世界は壊れない
うつ病や適応障害、あるいは愛着の問題を抱えている方の多くは、「自分の内側にあるドロドロとした感情を外に出したら、関係が壊れてしまう」「相手を傷つけてしまう」という恐怖を抱えています。
だからこそ、専門職に話を聴いてもらうことには、特有の意味があります。
どれほど強い希死念慮を口にしても、どれほど激しい怒りや見捨てられ不安を吐露しても、専門職という存在は壊れません。あなたの感情を受け止めたまま、翌日も、その次の日も、変わらずにそこにいます。
「自分の負の感情を外に出しても、世界は壊れないし、関係も終わらない」
この安心感を身体的に学習していくプロセスこそが、回復の土台となります。自分を責める代わりに、「いま、自分の心にはこういう反応が起きているのだな」と、あるがままの自分を眺める視点が、少しずつ育っていくのです。
病院の「外」にある、もうひとつの場所
ストレスケア病棟という場所は、物理的に守られた空間です。しかし、日常の中でその「安全な距離感」を保つことは非常に困難です。
主治医による診断や薬物療法は、治療の柱として欠かせません。その一方で、診察室では話しきれない微細な感覚、あるいは深夜にふと訪れる「消えてしまいたい」という衝動の波を、誰かに預けたい夜もあるでしょう。
「人生相談保健室コンパス」は、そうした日常の中にある隙間を埋めるための、小さな場所です。
私たちはあなたの病気を治すことはできません。診断を下すことも、お薬を出すこともできません。しかし、看護師や保健師として現場で培ってきた「揺らがずに聴く」という姿勢を持って、あなたの傍らにいることはできます。
「話したくなったら」という選択肢
自傷行為や強い衝動は、今日明日でゼロにしなければならないものではありません。
「やめよう」と強く思えば思うほど、その裏にある自責の念は強まり、かえって衝動を招くこともあります。
いまはただ、この文章を読んで「こういう場所が、病院の外にもあるのだな」と知っておいていただくだけで十分です。
あなたが自分の言葉を誰かに預けたくなったとき。まとまらない思いを、そのまま投げ出してみたくなったとき。その準備ができたときにだけ、私たちの扉を叩くことを検討してみてください。
私たちは、特別な解決策は持っていません。
けれど、あなたが自分自身の重荷を少しだけ横に置き、再び呼吸を整えるまでの時間を、共に過ごすことはできます。
【ご留意いただきたいこと】
- 本記事の内容は、医学的な診断や治療を代替するものではありません。現在治療中の方は、主治医の方針を尊重されることをお勧めいたします。
- もし今、ご自身を傷つけたい気持ちが強く、身の危険を感じるような状況にある場合は、医療機関への受診や、以下のような専門の相談窓口への連絡を検討してみてください。
【相談窓口のご紹介】
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厚生労働省「まもろうよ こころ」:
https://www.mhlw.go.jp/mamorouyokokoro/ -
よりそいホットライン:
0120-279-338(24時間対応)

